日付:2019/04/13 (土)
同行者:1名 計2名パーティ
天候:晴れ
気温:10℃(掬星台 、13:50、標高約690m)
調査・探索地域:穂高堰堤下・旧天上寺仁王門
地形図:神戸首部
一般地図概略位置:摩耶山
調査時間:0時間30分
道迷い:特に問題箇所無し
特筆事項:穂高堰堤下水道施設は足元注意
体力難易度:レベル1
技術難易度:Aランク
○穂高堰堤下の水道施設
ビューラインで掬星台まで移動。
摩耶山上の桜はこれからという感じ。
春霞の季節にしては展望もまずまず。
パートナーは山装備では無いので、DWを通り穂高湖西側の入口から穂高堰堤へ。
この写真は穂高堰堤方向を向いて撮影しているが、この大きな岩が目印。
よく目を凝らして沢側を観察すると、遊歩道添いからも屋根が確認できる。
パートナーには少し待っていてもらい、探索開始。
少し近づき、全景はこんな感じ。
扉は木製、周りにフェンスた門扉の跡は確認できない。
格子になっている部分は、ベニヤ板でも張ってあったのだろうか。
中はこんな感じ。
壁はいわゆる、木造モルタル塗り。
大小2つに仕切られ、中央に穴の開いたコンクリート水槽とポンプがある。
構造だけを見れば、おそらくはポンプ場。
手前の大きな水槽が、沈砂池。
中央の穴から小さい方の水槽に水を通すことで、砂や浮遊物を取り除くための構造だ。
建屋の外には、取水のための堰堤と、揚水管を支えたと思われる支柱。
MuscleTurtleさんの探索によると、揚水管と思われる管は、
摩耶別山の水道施設方向に続いてるようだ。
ポンプもあるし、電燈の跡もぶら下がっているので、ここまで電気は通っていたと思われる。
MuscleTurtleさんが、神戸市の水道局に問い合わせをされているが、この施設については不明だったよう。
手元にある、「神戸市水道百年史」にも、この施設に関する記述はない。
ひとつ注目していることは、
シェール道西側にある水道施設は、昭和35年に着工し、昭和37年4月に給水を開始している。
そして、今回探索したこの施設のすぐ上流には、穂高堰堤があり、
こちらは、昭和36年11月に着工し、昭和41年1月に竣工と工事の時期が被っている。
但し、同じく手元にある、「六甲三十年史−六甲砂防工事事務所」の穂高堰堤に関する記述にも
この施設のことは記載されていない。
今回探索するまでは、穂高堰堤工事の飯場の跡かとも考えていたのだが、
構造は明らかに水道施設。
但し、今まで見てきた、シェール道西側やトゥエンティクロスの水道施設と比較すると簡素で、フェンスや門扉の跡もない。
揚水管もむき出し部分が多く、倒木や落石などあれば、損傷を受けてしまう。
推測だが、
・穂高堰堤工事に伴う、濁水回避のための一時施設
・元施設がS42水害で被害を受けたための仮復旧施設
・六甲山上の水道需要増加に伴う追加施設
だったのかも知れない。
シェール道西側の水道施設にも、疑問は残っている。
こちらの施設にはしっかり残っている取水堰堤だが、西側の施設にもあるはずなのだが確認することができなかったことだ。
この先も、文献など注意しておきたいと思う。
○旧天上寺仁王門
二箇所目は旧天上寺の仁王門付近。
お馴染みの上のアメヤ跡なのだが、
最近入手した、昭和4年発行の「近畿景観」という書籍に以下の記述があった。
山門の傍に、五十年來店を開いてゐるという「あめや茶屋」に生まれた子供が、
山下の西灘小學校から家に歸るのである。
この山も、年一年と、子供が殖えて行つた。
いまでは、五〇〇米の雲の中から、
約六粁にも、近い道を、ケーブルの釣瓶に乘つて、
六人のこどもが毎日下界の學校へ上下している。
「あめや茶店」といふのは、元、山門の中へ入つた左側に、
四坪ほどの小さな地所を借りてさゝやかなか小屋がけをしてゐた。
近畿景観の記述によると、上のアメヤが現在よく知られている場所に移転したのは大正末期。
おそらくは、まやケーブルの開通で、天上寺が賑わうようになった時期だ。
山門のすぐ左側というと、この辺りになる。
少しのぞき込んだりもしてみたが、小屋があった痕跡は発見できなかった。
この「近畿景観」という書籍には、
あめや茶屋の先代主人(記述からおそらくは江戸時代末期生まれ)の面白い伝聞も記載されてる。
折を見て紹介したいと思う。