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六甲山の地理・歴史(六甲・摩耶 (東六甲・西六甲))


○六甲・摩耶 (東六甲・西六甲)

この記事を読んで頂いている皆さんは、「六甲」と言えばどの範囲を思い浮かべるでしょうか?
私は、西は須磨、東は武庫川、南は海(市街地)、北は有馬街道−鈴蘭台−名谷−塩屋ラインの範囲をイメージします。

図書館で過去の六甲に関する文献を調べた時、昔(昭和20年代くらいまで)は「六甲」と呼ばれる範囲はもっと狭かった事が判った。
(ここで言う「六甲」とは登山(ハイキング)的な意味で捉えたもので、地理的や地質学的には昔から須磨までが「六甲山地」)

北・南・東は現在とさほど変わらないのだが、一番異なるのは西だ。
文献によって差はあるが、今の杣谷−穂高湖−新穂高−マムシ谷−石楠花山−炭ヶ谷辺りのラインが西端なのだ。
すなわち、摩耶山から西は「六甲」には含まれていなかったのだ。
今は摩耶山と言えば、六甲に含まれるイメージだが、昔は六甲と摩耶は重複しない別の場所だった事になる。

確かに昔の「六甲」と名の付く文献を調べても、
一部に摩耶山への登山道が記載されているが、 それより西の山が記載されている文献は殆ど無い。

「六甲」の範囲が狭かったのだから、東六甲・西六甲の境界線も今とは違うものだった。
現在、東六甲・西六甲の境界はここだと正確に明示している文献は少なく
境界は曖昧なので私は山行記録で東六甲・西六甲と言う区別はしていない。

昔は東六甲・西六甲を分ける南北の線、表六甲・裏六甲を分ける東西の線、その交点は六甲最高峰だったようだ。

表六甲と裏六甲を分けている線は六甲山地の稜線だ。
東六甲と西六甲を分けている線は、これも文献によって多少の差はあるが、住吉谷−七曲−最高峰−魚屋道ラインになる。

よって油コブシやシュラインロードは西六甲の登山道だった事になる。

地図ならだいたいこのラインだ。

より大きな地図で 戦前の六甲 を表示


現在使われている「東六甲縦走路」という呼び名は昔の東六甲範囲の名残だろう。

またこれは私見で確認を取ったわけではないが、
山と高原地図の「六甲・摩耶」も昔の名残で六甲と摩耶は別の場所を指してるのだろう。
実際、山と高原地図で他の地域のタイトル表現と比較するとよく判る。
大文字併記は別の山や場所を指しており、大文字の地域に含まれる場合や周辺の山は小文字で記載されてる。
このルールに則ると「六甲・摩耶」は「六甲
摩耶」となるはずだがそうはなっていない。


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